今週もがんばるのだ。

昨日は横浜でエルンスト展を見たあと、ジャックカフェでビールたくさん飲んで楽しんできた〜。
梅雨の間をうまくつかって横浜満喫〜。2か月でとんでもない量の服を買っちゃったから節約、というテーマは半分くらいしか果たせなかったけど、まあまあ、充実、充電の週末。
そんでもって今日は朝から2本研究計画の添削をこなし、これから大学受験の予備校に教えにいくのさ〜。

おいら有能〜。えらい〜。
と思わないとしんどくなるので、自分に酔いつつ頑張って仕事します。がんばりまう。

あ、エルンスト展良かったし、ついでに美術手帖松井冬子特集号も買えたのも良かった。またレヴュー書くぜ。てか、フィリップ・ディックのValisのレヴュー早く書かないと、お話忘れちゃう〜。

そんなこんなで、日々仕事。でも、最近楽しい。

うん、いろいろと書きたいことがあるけれど、ちゃんと書こうとすると、ちゃんと時間を取らなければ、と思い、ちゃんと取れる時間なんか無いと気づいて、更新しない。更新しないのは、たぶん、世界とつながっている夜が好きではないからなんだろうけど、つながっていたいとか、あまりにcommonすぎる。

そんなわけで、まぁ、たまに書こう。
今日は、仕事で生涯学習教育についての話とかしてきた。
あたりまえだけど、Kevin Floydを読んでるときとか、よくわかんないけどラカンについて考えているときほど、脳みそがキビキビ来る感じはないんだけど。でも、この領域はちょっと前の教育社会学ブームをより具体的な形にするのに、とてもよい分野なのかも、と思った。

まあ、そもそも教育がイデオロギーフリーだなんて、それほど寝ぼけたイデオロギーもないわけで、昔の伝統的言い回しを使えば、教育はまさに「左右イデオロギー対立」のフロントなわけだよ。
だって、次世代の観念に影響を及ぼせるのだもの。
だから、みんな、「私こそ中立よ」みたいな顔して教育という国家イデオロギー装置を奪取しようと、必死になるのだよね。
で、社会が不安定なときに責められたり狙われたりするのも、いつも教育さ。某市長とか、わかりやすいじゃん。てかあれって、北米地域の「落ちこぼれゼロ」政策の劣化版にしか見えないんだけど。

まあいいさ。
ところで、教育とか学習ってのは子供にだけ与えられるものなのかな。もちろん、そんなはずないよね。生涯学習だもの。いわゆる「キャリアアップのために日々研鑽」とか言われると、「んなもん、職場でやれるようにしろよ。仕事のための努力を日常に要求すんじゃねぇよ。」などと悪態をつきたくもなるけど。(いや、わたしゃ、そんなこと言われたことないよ。なんて幸運。)

でも、教育とか学習ってのは、自分が今まで見えていないことに出会うチャンスでもあるし。それに、教育というシステムを通じて、こそ、僕はこんなに多くの人と、半ばリビドー備給的関係すらきずけているのだもの。こんなに、人にちゃんと物事を教わるのが苦手だった人間がね。

だからこそ、生涯学習生涯学習教育なんだね。なによりも、この社会で生きていくこと自体が辛くてたまらなくて、みんなでも、なんらかの打ち込めるものを探していて、人とつながりたい。
それはたぶん、これからその崩壊が顕在化してくる、郊外の住宅地で求められることになってくると。もちろん、これをしたり、と銭金に結び付けて、新自由主義的ロジックを推し進めようとする企業もやまほどあるだろうけど。学習は、それ自体の「認識の契機」としての反発力、そして、どんな枠組みだろうと予想できない形で起きる「出会い」によって、それを乗り越えるチャンスを与えてくれるのかもしれないね。

というわけで、結局50ページくらいしか読めないまま、中途半端な授業になってしまいましたが。牧野篤先生、注目だと思います。

へえ。

なんだ、私、けっこう良いこと書いているじゃん。最近、後輩たちの成長と自分の退化を感じていたから、色々へこんでいたんだけれど。
ようやく最近ネット嫌いが少しずつ治ってきたし、そろそろそろろろ。ろんろろろん。ろんぱらろんぱらろんぱらろん。

なんか書くか。もうちょっとね。あと少しで、添削地獄から一時解放だからさ。

やるやる詐欺

8ヶ月の放置〜。

いつもやるやる詐欺〜。

やりたいことリスト
・書評(以下、読み終えて書きたいことがあるリスト)
 伊藤けいかく
 『赤と緑の実験』
 『障害学への招待』
 タイトル忘れたけどセックスワーカー
 『国際協力学』
 アマルティア・セン

 あれれ、これっぽっち?

・書評(読み途中とか、つんどくとか)
 アンソニー・ギデンズの『社会学
 ブルデュー〜〜〜
 アート・マネジメントの本〜
 メディア論の本〜
 セックスワーカーの意識調査の本〜
 たていわしんやさんを本気で読む
 もはや賞味期限切れの『現代思想』の震災特集〜
 その他リストは長大に。

・その他
 「研究計画書の書き方」を本気でまとめて書く
 波照間旅行記を書く
 お料理日記を書く
 本気で社会をみつめてみる
 原発の話を考えてみる
 むしろ日本の政党政治システムと「緑の党」の(不)可能性を考察する

まだまだ、人生は長いが、2011年はかなり消費されてしまった。
とりあえず。夜のお酒タイムにネットを使いたくない、という性質をどうするかがこれらのプロジェクトの鍵だな。うん。ネットきらいちゃん。なんか、りばてぃがないのさ。りばてぃが。

1年たちました。

僕の人生でもっとも鬱屈して、そしてもっとも伸び伸びした1年でした。
そして、今日は風邪を引きました。でも、これから添削です。受講生の論文の英語を手直ししながら過ぎる、2010年でした。
来年も、生き残れますように。

クリスマスイブの朝ながら

とある大学院の入試問題(英語)からの抜粋。出典不明。
あまりにも、最近自分が考えていたことと一致するので貼っておく。

★★★
5人のゲイ男性の肺炎から、100万人のHIV−ポジティヴに広がって以来の10年間、エイズアメリカにおける最悪の面を明るみに出してきた。私たちは大量死の只中、伝染病が指数関数的に増大しているなかで、「ライフスタイル」の強迫観念にとりつかれているのだ。
1991年、私たちは一人のエイズ患者の正典(キャノン)化を目撃した。この患者は、23歳の、××という女性であり、彼女は「何も間違ったことはしていない」と言う。これは法の言葉であり、それゆえ彼女は、国民的シンボルになるのだ。××は、歯科医によって感染させられた、性交渉の経験のない美しい白人女性である。彼女は、一部の人々が「無垢な被害者」と呼びたがる者である。
(1)その「無垢な」という一つの形容詞で以って、私たちは、性交渉によってエイズにかかったり、汚染された(麻薬の)針によってエイズにかかった人々を、有罪で、究極的には助けと共感に値しないものとして非難するのである。ゲイ男性には彼らかかった病気が当然の報いであり、麻薬を注射する者は、死んだって仕方ない、と私たちは暗示しているのである。これはどこかしら、ステアマスター[階段型のエクササイズマシン]の上での厳しい苦行の最中、心臓発作で亡くなった健康意識の高いジョギングに励む人には同情しつつ、カウチ・ポテトの男性を亡くした未亡人には、「ああ、あんなにホットドッグを食べなければ、こんな目には逢わなかったのにね」と言うようなものだ。
★★★

最後の部分って、ほぼそうなっているよね。まさに、生−権力。この話は、またいずれ。

3週間。

記録に残す余力も特筆すべき出来事もないが、記憶に残った夢の記録。
私は、小学校時代の友人と、どこかのショッピングモールの、吹き抜けになっているエスカレーターを上っている。このエスカレーター、おかしなことに、1台に3つのベルトがついており、真ん中は上りだが、両端はくだりである。しかも、ひどく速い。私はたびたび、足を下りの方に取られて、転倒しそうになりながら、なんとか上る。(私は高所恐怖症なので、ひどく恐ろしかった。)
そして、突如その友人に「裏切られ」(なにが起きたのかはわからないのが夢)、一気に一番下方まで降りなければならなくなる。あるいは何か、上方からやってくるものに追われていたのか。
そこで私は、何を思ったか、大理石造りの建物の、なんといえば良いのだろう。エスカレーターに並列している壁を滑って降りていけば早いと思い、そこに飛び移る。
加速がひどくなって後悔したところで気がつく。その壁は、地上まではつながっておらず、地上3階くらいの高さで切れている。やんぬるかな。十分に加速がついた状態で、滑り台から、銀河鉄道の発射台へと変化したがごときものから、一気に空に放りだされて、「ああ、おしまいか」と思った瞬間目が覚めた。

ちゃんちゃん。