The second day of the three holidays.

I really have done nothing. I just kept on lying on the bed.
I really wish I could recover the day, which I well know I have lost.
But the life goes on.

I feel happy reading about a thesis on ENDO Syusaku and his attitude as an intellectual, with the author of which I drank a lot yesterday. I had some trouble with her, but we seem to have soleved it and, I hope, we can get along, as if nothing had occurred to us.

1週間。

11月15日から11月21日の記録。

 最近私は、「ブログ文体」というものが存在することに気付いてしまった。いや、あらゆる媒体には「文体」もあるし、その文体を守りながら、自己の文体を葛藤的に提示するのが、「表現」なんだってのは十分にわかっているのだが。それでもなんだか、あまりにも規制力が強い。それはたとえば、文頭の一文には決して「私」という主語は使わない、ということであったり、その日のごはんを必ず書くとか、そんでもって、重要人物の名前を説明ナシに告げるとか、ほのめかすとか、そんで、その日記の中には、出来事の経過に軽い雑感を混ぜるとか、そんで、ご飯を書くとか。で、これから行うことを書く、とか。
 いや、たけおぽんのことを言っているのではなく、この形式が実に安らぎを与え、実際、優れた文章を書く人でも、たいしたことない人でも、なんだか適度に読むグルーブが形式的に決まっていて、それを守れば、なんとなく素敵な文章に見える。なんとなくね。決まった読者を想定しつつ、しかし、なんとなくパブリックにも開かれている、みたいな。生ぬるい公共性と私秘性。生ぬるい。
 文体ということに関していえば、僕はとても文体が曖昧で、というか、憑依されやすく、たとえば、町田康なんかを3時間ぶっ通しで読んだあとなど、町田康の文体もどきで思考を支配されるし、この間お風呂で岡崎京子のPinkを久々に読んだときなんて、頭の中が、オザケンとオヤマダとオカザキの混ざったワニ視点でこのブログの原稿を考えていたり。で、ちなみに川端を読んだあとは、ぜんぜん川端の文体で思考したりはしないのは、きっと川端がすげーんだろうなあ、とかね。この憑依されやすさは、本日のこの1週間の記録の中で、おそらく言及するであろう、僕の近日の欝的傾向の大元にあるものと関連し、おそらく、僕のその、他者に自己を委ね、自己の存在意義を他者に求めてしまう傾向(それも、特定の他者、たった一人の人に求めてしまう傾向)と、その閉塞感からの離脱→破壊→焼け野原というサイクルと関連しているように思えるだけに、どうにかならないか、と。
 たとえば、こういう文体の問題に取り組んでいるのが、このブログの数少ない想定読者の一人であるところの背教者なんじゃないかと愚行したり。とか言いつつ、なかなか読めないのは、単なる嫉妬であったりとか。あ、想定読者、正直現状、たけおと背教者しかいないんだけど、「実はおれも/私も読んでますよ」って人、いたら教えてね。いないかもだけれど。読者へのサービスって、大事さ。
 なんとかそうしたものに抗した文体を手に入れたい、「つよい文体」を手に入れたい、と思った瞬間、これって最近僕が勝手にそれを見てへこんでいる「つよい雑誌」というフレーズと重なるな、と思って、まったくもって暗い気持ちになったりとか。ああ、言葉とはなんと有限にして不自由にして暴力的なることかな。

というわけで、ブログ文体でスタート。

月曜日。
なんだか記憶があやふやだけれど、先週の最後に記した日曜日の過ごし方ができず、かなり朝寝をした気がする。週の頭から暗い気持ちであった。しこうして、あまり仕事も進まず、その日の準備だけを行って仕事に行く。この日の職場は「アウェー」なので、「僕はただの駒、ここではただの駒」と言い聞かせてから教室に入る。
駒なのが嫌なわけじゃない。ただつい、スタンドプレーに走ってしまうんだ。そんな自分が嫌なのに。少々理不尽なこととか、つまらない規範でも、ちゃんと守って安穏とすごしたいのに、ついついつい、余計な一言、余計な人間性がはみ出す。だからと言って、別に仮面を被るのが良い、というわけではないんだが。「アウェーは引き分けで十分」なのに、ついつい、「2−0からのダメ押し」を狙ってつい、「2−3の逆転負け」を食らうような、そんなことがおきそうで怖いなあ、と。
現時点で語りなおすならば、そんな気持ち。
授業を頑張った。ちなみに、どうも僕のことを苦手としている教え子さんがいるようである。普通に教えているのだが、どうしても僕はキャラクターが強いので、生理的嫌悪感?そういったものを覚える人が、ごく稀に出てくるようだ。申し訳ない。僕のことを嫌いにならなければ、もっと僕が言っていることが頭に入って、学習の効率が上がるのに。ごめんね。

夜は焼鳥。自分で鶏をフライパンでじっくり焼いて、塩をメインに、酢醤油などをあわせて食べる。
ビールととても相性が良い料理だ。
その後、川端康成の『名人』を、ビールのつまみに読む。凄い作品だ。名人の肩について、「なにかが勝負にあたってわきあがってくるのを目撃した」みたいなことを、素敵文体で記して、「うわあああ」て思わせておいて、「あれはどうも心臓の小発作だったらしい」などと、数十ページ先で軽く覆すセンスに脱帽。


火曜日。
朝9時半から夜21時半まで、フルタイム。いや、労基法的にアウトかい?私のような、特定の会社に「所属」していない「非常勤」の勤務時間についての規定はどうなっているんだろう?でも、みんな残業とかで、1日12時間くらい働いているんでしょう?
このあたり、よくわからない。ただ、私が「この時間しか入れられません」って無理矢理ねじこんだために決まった日程であることは付言しておこう。夜の安らぎ、翌日の快適さよりも、目の前に発生する仕事に飛びつかなければならないときもあるのだ。
夜、昨日の鶏の残りを、野菜、トマトソースと共にいただく。あ、カボチャの塩蒸しも昨日仕込んでおいたのだった。まずまず、悪くない晩御飯を食べたのだけれど、ここで落とし穴。
なんとなくゲームがやりたかったのだが、ビールが残り2本しかなかったので、野球のゲームではなく、『信長の野望』をセレクト。私の家にはこの2つしかソフトは無く、いずれも古い。特に前者は、普通に野村ケンジロー監督が現役だったりする。この頃のカープの打線は凄かったな。金本は、まだカープ所属だったっけ?まあ、放出だが。
で、このゲームは、もはや完全に儀式となっている。野球のゲームは、その日の緊張感を、別の、「やってくるボールを集中して打ち、配球を考え、守備を行ったり盗塁を狙ったりする」という緊張関係の中で癒すものであり、「得点が入ったらビールを飲む/守備イニングが終わったらビールを飲む」というリズムが決定していて、約、1試合45分のプレー時間で、ビールを1.3Lほど消費するのである。これに対して『信長の野望』の場合、一応頭を使いながら、しかしまあだるだるに、ちょっと考えている気分に浸りながら、だらだらとビールが飲めるのだ。弱点は、先に進みたくなること。思えば、ゲームというものは、とにかく「もっと先へ」という力でもって成立している。このゲームなどもそうだ。
そう、やらかしてしまったのです。翌日もまた、早朝に起きて添削等に励まなければならないのに、つい途中で、ビールまで追加して、寝たのは4時。こんな愚かなことは久しぶり。


水曜日。
前日の失敗は前日の失敗として、取り戻せるだけ取り戻すべく準備する。まあ、その日の授業で困らない程度には取り戻した。
それでもちょっと暗い気持ちではあったのだけれど。
夜は、何を食べただろう。予定表には、「カキの酒炒り」や「ニラのおひたし」などという文言が心高らかに躍っているが、バカか。そんなん、帰ってきて作る気するわけないじゃないか。夜の22:30に。
ああ、思い出した。前々から、よく行くアイリッシュパブの隣にある焼き鳥屋が気になっており、焼鳥ならカロリーもほどほどになるし、と向かったんだ。結果、あまりに大失敗。それ以上批判はやめよう。食べ物にケチをつけるなんて、お行儀が悪い。でも、もう行かないかな。
この街は、僕が以前、ワンルーム2部屋を隣に借りて同居していた女性と住んでいた街の隣である。この街には、彼女と度々訪れた焼き鳥屋があるが、そこをついつい、避けてしまう。
僕がへこんでいる最大の原因は、彼女が結婚していたことだ。これは「未練」であろう。しかし、自分から関係を徹底的に破壊して、ひたすら逃走した関係に対して、どんな未練を持つというのだろうか。「情」はあるのだろう。でも、逃げなければならないと思った。これは、木曜日の日記にて。


木曜日。
上記のような思念にもとづいて、朝からくら〜い気持ちでいたのだが、仕事は楽しかった。いや、本当に仕事は楽しいの。
最近、自分の仕事を野球選手にたとえたり、お料理屋さんにたとえたりする。(ちなみにこのお料理屋さんにたとえる、を、ちょろっと土曜日に話したら、「ロスがないところが違う」と指摘され、「なるほど」と思った。材料が自分だけ、というのは僕の仕事の特権的な経済性だな。その割には儲からないけれど)
野球選手で、試合が嫌いな人はいないだろう。野球は楽しいのだ。そのプレッシャーも含めて。でも、その為に彼らは、自分という唯一の資本に手をかけて、辛いことがわかっている練習などを行い、決して無茶なことはせず・・・いや、していて自分につけが回っている人もたくさんいそうだが・・・。つまり、「お客さん」のいないところで努力しているのであり、その努力の量と質が、プレーの質に反映される。
僕もそうだ。受講生の前では、僕は本当に楽しい。授業をやるのが嫌、なんてことはありえないのだ。たとえそこで、問題が生じても、そのベースには「授業の楽しさ」がある。ただ、そのために十分な準備を行わなければいけない。というか、そのツケは必ず、授業の質になって出てくる。それはたとえば、受講生の目には、「1塁まで全力で走らなかった」「中継プレーを怠った」などのように映ることもあれば、「完全なKO負け」のように映ることもあるだろう。それだけに、準備はちゃんとやりたいんだ。完璧なんて無い。だけれども、それを目指すのを止めてはいけない。
そうそう、仕事の話は、水曜日の話と綺麗にループする。上述の女性は、いわゆる「クリエイティブな仕事」についていた(る)。当時のことを語れば、僕はいまだにあの関係において自己を正当化したいという欲望にかられてしまうので、詳細は決して記してはならないのだが。彼女の話を聞いていて、僕はおそらく、嫉妬に駆られていたんだろう、あるときから。だから、なんでそんなに楽しい思いをしているのに、そんなに愚痴ばっかりなのさ。僕の話をさせてよ、と思っていた。僕のことなんかわかんないよな、と、実に恥ずかしい思いを持っていた気もする。
僕の仕事は、とても「クリエイティブ」である。本当に面白い。だけれども、僕の仕事場はいつも渋谷で、僕はいつも、同じ建物に、同じ時間に向かう。同じ場所で過ごす。新しいヒトとの交流や、仕事場の人とごはんを食べる機会なんか限られている。彼女の「今日は誰々に会った、今度出張でどこそこに行く、今週は飲み会だ、ああ面倒くさい(あなたと週末過ごしたいがセットだったのに、僕にはそれが見えなくなっていた)」などの文言に対して、完全に嫉妬していたのだろう。
あのとき、彼女のそばにいて、僕は、大好きな仕事が、なんだか、単なるルーティンワークにしか見えなくなりそうで怖かった。何より、彼女に日々巻き起こる、困難、不安、楽しみ、そうした話を聞いていて、彼女が気を使って言う「今日、○○は仕事どうだった?」の問いに対して、なんて答えて良いかわからなくなっていたのだ。

さて、話を戻そう。木曜日はボジョレーヌーヴォー解禁日。完全に定着した感がありますね。大好きな246+1でボジョレーを1口飲んだ後、アルゼンチンのワインをたくさん飲む。ご飯は絶品でした。キノコのマリネは定番料理なんだけど、臨時のお勧めで、和牛の手挽きハンバーグがありまして。ええ。ステーキでしたよ。劇烈なおいしさで。口の中で、赤みの牛肉の味が広がり、それを楽しんで、さあ、飲み込んだ、というところでアルゼンチンのワインを流し込む!極上。
246+1食堂は、なんだかとても不思議なお店である。お店は「カモメ食堂」なんかを思い浮かべてもらえれば近いんじゃないだろうか?ここでは、とても素敵な雰囲気をまとった2人の女性が、一生懸命おいしいごはんを作ってくれる。で、飲ませてくれる。ついでに、おしゃべりにも付き合ってくれる。(とにかく本当に忙しいので、ちゃんと空気を読んで、ほどほどに喋っています。たぶん。ちがったらごめんなさい。)
で、ここには本当にクリエイティブな人々が集まってくる。いわゆる「クリエイティブな仕事」についている人のみならず。(あ、ちなみにここでのキーワードになっている「クリエイティブ」の陳腐さの責任は、全て、僕に帰する。で、定義はない。そう思えたら、そうだってことさ)
なんか、ここでの人々を見ていると、自分が単に、仕事をさらに「外に開く」っていう作業を怠っているだけだと感じたわけだ。もうこの瞬間から、欝解消!超やる気満々。って、何をやるわけでもないけどね。なんか、いろんなことができそうな気がするんだ。もちろん、人に迷惑かけないで、僕のもっとも大事な美徳であるところの、慎重さと丁寧さと堅実さを失わないでね。なんか、そんな風に思えてくると、かの女性との関係性への未練が、かなり楽になった気がした。
かの女性との関係性への未練。それを僕は、「お金?」とも思っていたのだが、そしてそれはあるだろうし、もちろん、それだけだと鬼畜であり、二人で泣き喚いたり、二人で笑いあう日々という蓄積を台無しにしたことの後悔(ただ、僕はできれば泣き喚く関係性は嫌なんだ。本当に苦手なんだ。中村一義みたいには歌えないんだ)であり、その人の持つ、世界への能動性、突進力、世界観、そうしたものを共有させてもらっていたことへの感謝の不十分さへの後悔であり。
でもね、僕の特技は、好きだった人から、いろんなことを学んで、全部自分のものにしちゃえることだって。で、だから僕は、色々できるのさ、て。

はい。
ずいぶん赤裸々な印象を受けたと思うけど、これは明日の夜の、2人とのお酒を、なんだかぐるぐるした僕のつまらない愚痴で汚さないためなんです。そんなもの読まされる人は困ると思うのだけれど、僕のことをなんだかんだ愛してくれる人は、そんなの大丈夫だろうと。

そんな最高の夜ご飯でした、とさ。


金曜日。
最高の夜ご飯の代償としての、準備不十分。朝の授業はイマイチでした。ごめんなさい。その後、昨日のお酒が少し残っていて、食欲がないなかで、渋谷のガード下で塩とあぶり鳥のラーメンをいただき、スクランブルカフェでひたすら、携帯電話をいじって過ごす。携帯電話がすごい状態で、本当に機種変更をしなければならないな、と改めて思うわけだが、まあ、そんなものだ。
夕方、「ホーム」に向かって個別指導1件。途中のアイドリングが効いたか、いい感じだったと思う。
夜は、なんだか胃もたれしていたのか、食欲がなかったのだが、ビールをある程度飲んだら勢いがついてしまい、近所のラーメン屋でさらにラーメンを食べるという大失態。最初はふと面で濃厚スープのあと、替え玉は細い繊細なちぢれ麺などという恐ろしい芸当にしてやられて、大変満腹で就寝。ダイエット、台無し。


土曜日。
ほぼ1日、このブログの文面を考えて過ごしていたようにも思うが、気のせいだろう。とはいえ、半ば欝的傾向と共に、やたらと自意識が肥大しているので、思考がどんどん広がっていく。こういうのは、嫌いじゃない。個別指導2件の合間に246+1食堂で、あるコラボのスペシャルランチ(鶏のグリル+栗とキノコと白菜のクリームソース、春菊のサラダ、かぼちゃのお味噌汁)をいただき、終了後、さらに246+1に突撃し、ちいさなおつまみと共に、ビールをけっこう頂く。で、寝る。

教室で、ある女性に「火曜日に先生が自殺する夢を見た」と告白され、自分の転移的な指導が有効に機能していることを確認し、そして、そんな風に心配をかけるようなものが伝わってしまっていることに気がつき、なんとも申し訳ない気持ちになる。ごめんね、絶対死んだりしないから、安心してね。もちろん目の前では、「あはは、なんでだよ」と笑いながら言ったが、それは彼女の心配をちゃんと打ち消しただろうか。無意識レベルの。


日曜日。
せっかく週の後半は良い感じだったのだが、朝起きた瞬間に浮かんだ想念が「ああ、1日しか休みがない」。なんて残念な思考回路。
そこで、逆に開き直って、今日を有効活用しないことを心に決める。
朝4時半くらいに目が覚めたのだが、午前中はとにかく布団でぐだぐだと過ごし、漫画を読んだり、眠くなったらうつらうつらしたりして、昼すぎに近所の、上述のラーメン屋とは別のラーメン屋で、大量のラーメンを食らい、また布団に入って16時くらいまで寝る。
すっごく後悔しそうな過ごし方をしたのに、あれれ、不思議。上機嫌だ。そうかあ、こういうのも必要なんだなあ。
布団から出たら、すみやかに紅茶を用意し手帖を開いて、来週の予定を立てる。おお、いい感じ。たまっていたメール、案件に片っ端から対応し、上機嫌で、今、ブログを書いている。
今日のこのあとの予定は書かない。
でも、明日の夜、たけおとプロファネとお酒を飲むのは本当に楽しみです。

世界人類の幸福を祈れますように♪

おやすみなさいませ。


そしてもし、ここまで、飛ばし読みでもなんでも読んでくれた人がいたならば。本当にありがとうございます。来週はもっと楽しんでいただけるように、一流のエンターテインメントを目指して頑張ります。

1週間。

朝、妙なハイテンションの下、これからは1週間の日記をまとめて週末書いたりしよう、と決心した。その後、仕事を執り行うにつれ、その決心ははるか彼方に行ってしまい、なかったことにしようと思ったんだけど、それもあまりなので、やっぱり書こう。

言葉はまさに溢れんばかりに自分の中に横溢しているのだけれど、それが全然多声的でないどころか、ただの自己正当化、ルサンチマンの塊にしか思えなくてあんまり発したくないような気になったりする。ので、とりあえずは抑え目で行こう。

つぶやくことを度々進められ、僕自身魅力を感じているのではあれど、しかし今は、手軽に思考の断片を拡散するのはやめた方が良さそうだ。1ヶ月後くらいにはなかったことにしたい呟きにあふれそう。


月曜日。
月曜の仕事が午後15時から、というのは、最近、土曜日にも仕事が入り、日曜日も家で仕事の体制の僕にとっては実に貴重なことだな、と思いながら、あまり家事もできず、添削をこなし、午後から仕事に向かった。
夜ご飯は、覚えていない。夏に購入したあと、本命を別の場所で購入してほとんど存在意義のなくなっていたロクシタンのシャワージェルを入浴剤にして泡風呂入って、ビール飲んだ。


火曜日。
この日は大学受験のほうのお仕事で、初めて個別指導が入った。まあ、他の先生が空いていないという要因が大きかったのだろうけれど、一歩前進。気合を入れて準備する。ちなみに、朝9時半から夜21時半まで、ずっと仕事だった。火曜日の帰宅のずれが、どのようにして水曜、木曜に悪影響を及ぼすか、思案しつつ、前日と同様の風呂に入ったような気がする。


水曜日。
前日の帰宅のずれは案の定、悪影響を及ぼし、水曜の授業準備がちゃんと終わらないまま仕事に行く。それに加えて、「最近服を買いすぎだな」というよりは、「最近服を買いすぎているのに、なおかつ買い方が下手くそで、ローテーションが上手く行かない」という事実に直面し、軽くへこむ。でもやっぱり、マーガレットハウエルは好きだ。
つい、暗い気持ちになりそうだったので、夜ご飯のことなどを考え、あえて笑顔をいつもよりも増やして仕事をする。悪くない。
夜ご飯は、職場の近くの246+1(ニイヨンナナ)食堂。いつも美味しいものを食べさせてくれるので、逆に何を食べたか忘れてしまうのだが、鮭を日本酒でいただき、閉店間際、赤ワインを2杯いただいて、かなり上機嫌で帰宅。
その夜、ついつい酔いのせいで、きっとこうなるだろうな、そしてそのことに僕はへこむだろうな、と思う事実と直面してしまい、本当にへこむ。軽く、金曜日の朝くらいまでは引きずる。


木曜日。
1週間の中でもっとも厄介な(ただし、もっとも楽しい)仕事の準備がうまく行って、夜〜朝の暗い気持ちが一変する。楽しく仕事をしたのだが、夜はやはりまだちょっと。というわけで、一人ではあんまりいたくない、という理由で近所のアイリッシュパブでギネスをしこたま飲み、チキン&チップスをしこたま食べる。
友達が多いほうではないのだが(というか、友達として集まる人数単位が少ないだけだろうか)、それにしても友達はいないわけではない、と思い、そういう人に声をかけて遊びに行ければ良いのだけれど、自分の時間がなくてそれができない、というアポリア。世の中本当にままならない。


金曜日。
午前中、渋谷のある方面で仕事をし、午後は夕方まで空きで、夕方から別の方へ仕事をしにいく、という効率の悪い日程。しかし、今の僕にはある意味助かる日程だったかもしれない。(そりゃ、午後すぐに仕事が終わってそのあと即帰宅→ビールだったら、それは最高だが。)
お昼ごはんは、渋谷の宮益坂下の蕎麦屋?飲み屋?で、カツ丼と小さいソバのセットなどというものを頂く。なんだかサラリーマンみたいだ。スーツ着てるし。まあ、ネクタイは革だけど。
その後、まったりと高架下のスクランブルカフェでお茶をしながら添削。小春日和の午後の陽射しのもとで、軽くまどろみながら。思い出との葛藤などもしつつ、人生をできるだけ愉しむ決意を再度固める。
夜ご飯は、軽い週末気分のため、東急で寿司を購入し、エビスをしこたま飲んで、ゲームにいそしむ。


土曜日。
昨日に続いて、まず12時から仕事、2時間半空けて、16時から仕事という効率の悪い日程だけれど、かえって、効率が悪いくらいのほうが良いかもしれない。僕は比較的「効率」で物事を考えるほうだと思うのだけれど、効率が悪い時間は、ゆとりのある時間だとも思う。
そんなわけで、246+1食堂で念願のランチ。火、木、土と、ランチ営業をやってらっしゃるのだけれど、いつも家で授業準備をぎりぎりまで繰り広げている僕は、授業前にランチに行けた記憶がない。
一番上にあった、お魚のメニュー(西京漬け的なもの?)は売り切れだったのだけれど、僕はイメージフォーラム前の通りに入ったあたりから、甘しょっぱい香りに惹かれていて、それが食べたくなったので何も問題はなかった。鶏とサツマイモの甘辛煮?焼き?だったかな?名前はともかく、調理法はともかく、とっても美味しくいただけました。
夜ご飯も246+1に行きたかったのだけれど、そういう気分になることを見越して、あらかじめ自分に制限を課すために前日から鮪のヅケを仕込んでおいたので、ヅケ丼。しかし酒が進むにつれ、自分のタガがはずれ、結局、焼きソバもこさえて食べてしまった。
一応ダイエット中なのに、全然ダイエットっぽくないのが僕の食生活。まあ、仕事が肉体労働なのでね。
って、油断して夏に太ったことを思い出すべきだ。
ちなみに昼間、ほとんどもう、壊れてWEBが満足に使えなくなった携帯電話で、僕の人生の大事な1ピースが大連に行くなどと寝言をほざいていやがるのに気付いて、まあ、暗い気持ちになるどころか、「さらに面白いことになってきたな」と思った。


日曜日。つまり今日。
僕にとって今、人生の日常的活動で一番楽しいものである活動を行う。それは1週間の予定を立てること。予定というものは良いな、と日々思う。それは、空っぽの未来に対して、縄張りを立てる作業。設計士の仕事ってこれくらい面白いんだろうな、と思う。予定に縛られてしまい、あるいは予定を守れなくて落ち込む人もいる、と聞くのだが、僕自身に照らして言えば、僕はとても楽天的で、自分の人生がもしかしたらもう半分以上終わっているかもしれないなんて考えず、常に新しい未来がまだあるように思ってしまう性質なので、予定は、理想の自分なのだ。だから楽しい。
そして、予定を立てることを楽しんでいたら、午前中をつぶして午後に入り込んでしまい、今日やろうと思っていた予定を潰してしまったけれども、それはそれで良いのじゃないだろうか。
ただ、同時に思う。僕は自分の予定を立て、それを実現できないまでも、それに近づいていくことが楽しい。そして、実現できない自分を許してきた。それが、僕が今こうした、不安定な立場において仕事をしなければならなくなっている原因でもあり、かつ、その仕事で、他のどんな仕事についていた場合よりも幸福を感じている理由でもあろう。だから、これは良いと思う。
でも、人といっしょに立てた予定は、僕が一人で立てた予定とは違うんだ。当たり前だけどね。これは約束なんだ。だから、人に言う「予定」は、もっと丁寧に考えようと思う。
そしてしかし、それを壊してしまったとして、「もし仮にあの予定をもっと厳守していたら」と思う自分を戒めようと思う。

予定から外れるということは、良いことも悪いことも生み出す。いま、たまに自分の人生がどこに向かっているのか、自分の生きがいが何なのか、たまたま見えなくなったとして、自分の仕事、自分の勉強に、甲斐を感じなくなったとして、いまの生活が、ただのサバイバルにしか見えなくなっても、それはそれで大丈夫。
僕は今、種を蒔いているのだろうと思う。そう、この日々の生活が、とにかくリタイアしないように1日1日死に近づいている、という性質のものでなく、「環境によって一定の可能性の範囲に狭められているにせよ、しかし決してあらかじめ決定されているわけでも、予測可能なわけでもない未来」(Elizabeth Grosz)に開かれている、と信じるために。
僕はちゃんと、この1日1日を、半ば義務的に、記録に残していこう。

来週は、毎朝、仕事の準備とかを始める前に1時間半のマージンを取った予定を立てた。もちろん、もう予定はずれているから、この予定を守れるかどうかわからないんだけど。
この1時間半を、純粋に自分の楽しみに使おう。フロイトの『自我論集』と川端康成の『名人』を今週中に読めたらいいな。まあ、仕事のための側面もあるが。

今日はこのあと、ローズマリーを入れたお風呂につかり、風呂上りにビールを飲みながら、トマトソースを作ってオレキエッテを茹でて、カボチャを蒸して、晩御飯にする「予定」。

呼びかけられたい主体〜六本木21_21デザインサイト「これも自分と認めざるを得ない」展

酷暑、過剰労働、自己愛過多、酒びたり。ポトラッチ・パーティのような濫費。蕩尽。
そんな8月のある日、半ば、「ネギにネギをかけて食べる」子に、「これから歩いて六本木まで行くんだ」と言いたいがためだけに、六本木は、21_21デザインサイトを訪れた。

「これも自分と認めざるを得ない」展(http://www.2121designsight.jp/program/id/index.html


その日はオルセー展の最終日で、一応訪れてみた新国立美術館で浦安の某一角のような有様を見て、当然のごとくあきらめて、一緒にやっていたマン・レイ展を見て、満足しながら、その企画の工夫の無さに悪態をつきながら、展示の名前だけで決めたデザインサイトの展示を見る。
道中、かの有名な青山墓地を左手に見ながら歩き、肩が重くなった気がした話は割愛。

この展示は、主に「個人情報」の問題をメインにしていた。(行ってから知ったのだが。)
あらかじめ述べてしまえば、私はこれは、企画意図だけが先行した、生煮えのあまり成功していない展示だと感じている。

展示内容
まず入口を訪れると、体重、身長などのいくつかの個人情報、虹彩情報を預け、「宙に星を描く」というなんだか儀式じみた行為を行う。複製技術時代の末期、それが極限まで推し進められた結果、複製不可能な無数のワタシが世界から認識される。そんなベンヤミン的な、デジタル儀礼。星座的布置。なんならオリオンでも描かせてくれよ。

入ってみれば、たとえば指紋を押し付けると、指紋が泳ぎだして、帰り際にもう一度押し付けると、指紋が返ってくるという池があったり。また、身長体重をもとに、「あなたはこの人でしょ?」って、名前を当てられる(しかし当たらなかった)装置であるとか、わざとらしく「休憩スペース」としているものの上に隠しカメラを配置して、その個人の振る舞いのもとに、パーソナル・スペースなるものを図にしているライブテレビがあったり、そして変な小屋に入ってみると、鏡があって、後ろに金魚鉢と金魚が写っているのだが、部屋には金魚は存在せず、鏡の中にはあなたはいない、というトゥルニエ的、あるいはラカン的展示企画。そして、虹彩がでかでかと映し出されて、自分の名前があてられる。それを一生懸命、なんだか古典的な黒板消しみたいなもので消していくまで「まだあなたです」と「呼びかけ」られ、ようやくその個人が特定できなくなると、「もうあなたではありません」とdismissされる、という装置。


感想
このように述べれば、とてもなんだか面白そうなのだが、いちいち色んなものを体験するのに並ばなければならない。そしてその割に、ひとつひとつの装置にはインパクトはない。
なんだか、中途半端なアトラクション、高校の文化祭のお化け屋敷にも似た手作り感(入ったことないけど。)

「面白い」というか、なんだかやさしい気持ちで体験してあげなければならない。

「いまの技術ではあなたはこんなに特定されちゃうんですよ!」と、1973年、私の認識ではミシェル・フーコーが『監視と処罰』を出版した瞬間に大々的に到来が予測された、監視社会(しかしそれは、オーウェル的なのか?)の恐怖でも伝えてくれるのか、と思うわけだが、様々な失敗によって、逆に、いかにいまだ、テクノロジーは、私達が「顔」というものによって容易に認識できるものを認識する力がないか、思い知らされる。そう、煙草の年齢認証つきの自販機と同じだ。

そしてフーコー流に言うならば、この展示の「失敗」こそ、この展示の機能なのである。

まさに、ワタシが不安になるのは、ワタシが認識される瞬間ではない。
「これがあなたです」
「まだあなたです」
その呼びかけは、アルチュセールを用いるまでもなく、国家イデオロギー装置からの呼びかけなのであるが、本当に怖いのは、せっかく登記した情報、並んだ手間、それにも関わらず、「これはあなたではありません」「これは別の人です」という呼びかけの失敗こそ、「あ〜あ、ダメじゃん」という企画への失望とあいまって、ワタシを不安にするのである。

そもそも、数多くある、アルチュセール的な「主体化」の論の多くが、いくらフーコーアルチュセールが注意しようとも、「主体」と「権力」を相互に外在的なものとして前提している。つまり、主体は常に既に権力の外部にあって、権力から呼びかけられることに恐怖し、あるいは嫌悪する。

しかし、ジュディス・バトラーが喝破したように、主体は呼びかけられる前に、すでにして呼びかけられてあらねばならず、あるいは、主体は主体として呼びかけられるべく準備ができていなければならない。(Psychic Life of Power

アルチュセールが「図式的」に示す、あなたの後ろから呼びかける警官は、決して "Hey You There"と呼びかけてはくれない。
あなたは常に既に呼びかけられてある。

そして本当の恐怖は、権力によって認証されることではない。
権力によって認証されないことである。

今回の展示で、唯一、よくできていた虹彩認証のあの展示。(それはもっぱら、虹彩認証の技術の信頼性の高さに由来する)もしあそこで、あなたの虹彩の中心に浮かぶのが、あなたが入口で記した名前でなかったならば?

そして後ろから、「それ、、、俺だ・・・」と呟く声が聞こえたならば?

昔人づてに聞いた、もう都市伝説のような、ある人の言葉。「長いものに巻かれるって気持ちいいですよね。」

もともと、個人のアウラの喪失、個人が群集となることを導くとされていた複製技術の、その同延上にあるシステムは、デジタルな形で個人を特定することで、個人のアウラ(あるいはアイデンティティ)を回復してくれるかのようだ。
そしてそれが失敗するとき、ワタシは、不在になるのだろうか。

権力は呼びかけてくれる。
呼びかけられるスリル。
権力と遊ぶマゾヒスティックな快楽。

それに呼びかけてもらえない恐怖。しかしそれすら、権力の内部にある、快楽と主体化のシステムだとしたら?
権力は、遠心的なのだ。権力は、必ず外部を構成するのだ。

だから、この展示は、失敗のそのゆえに、成功する。やさしい権力とやさしい主体は、美術館という予定調和の場所で、予定調和の崩壊すら予期しながら、ちょっとした、Master & Slaveあそびに、興じるのだ。

ごはんの写真。

ワールドカップ日本代表の試合(たぶん、オランダ戦)を観るときのために作ったパエリアとチキンのグリル。
一人で食った。



ねぎが大好き、という女の子の話を聞いて、刺激されて作った、夏向けチャーシュー丼。
小ネギをちらしまくって、上から軽くレモンを絞ったら冗談みたいに美味しかった。



この夏、僕の定番レシピに参入した、かぼちゃの塩蒸し。
からしマヨで食べたりポン酢で食べたり黒七味マヨで食べたり、いろんなことができる。


茹で鳥も幸福。ネギとしょうがとにんにくと一緒に茹でて、茹でたにんにくと醤油を混ぜたもので食べると無敵。
ビールに相性最高。今度は豆板醤や東南アジアっぽい調味料で作ったソースでも食べてみたい。


そんなわけで、今日はおたけさんを仕事場の近くに呼びつけて晩餐。
19時半から終電までなんて短い時間なのに呼びつけてごめんね。
ぷろふぇいんも、全然お店にもいけず、夜中まで飲めずごめんね。
たぶん、年内は仕事ノンストップで、徹夜のみがなかなかできなくてごめんね。

でもぼく、幸福です。