あしたは。
ひさしぶりに遊ぶぞ。
鎌倉行こう、そうしよう。
午後には雨も、止むだろう。やめやめ雨よ。
でも雨に濡れた紫陽花は見たいとか、人間の欲望は限りない。
何はともあれ日曜日。
春学期の授業は昨日で全部終了。
みんなにご容赦いただいて、添削も1週間解放してもらって。
しっかり心のメンテナンス。個別指導が入っているが。
はやく明日になーれ。
今日は今日とて、お仕事だ。
ヒカリエでデヴィッド・リンチ展やってるぜ。
帰りにやるか。どうせならスラヴォイ・ジジェク展とかやってみろっつーの。
昨日はとみーと酒。
とみー、眠そうすぎ、疲れすぎ。
ってか、疲れが顔に出過ぎ。
待ち合わせまで時間が妙に空いてしまったので、渋谷から池袋まで延々と歩き続けた。明治通り。
原宿方面の、いろんなブランドの路面店が立ち並ぶおしゃれな通りから、新宿の花園神社界隈の、少し魔界の香りのする人ごみの中。そして、高田馬場に至るなんだか東京なのに、地方の幹線道路沿いみたいな風景など、いろんなものを目にしながら、夕方→夕暮れ→夜の空の変化と自動車の排気ガスを満喫して、約2時間強のお散歩。
最後、学習院下あたりから、完全に夜になってきたこともあって、急にさみしくなったけど、そのあとプロントで飲んだ、最初の1杯は極上だった。プロントは食は微妙だけど、ビールはうまいんだよね。
今日はひたすら研究計画書添削。
でもみんな、面白いことを書いていて、私はとても楽しい。
カープも勝ったけーね。
はいぱーめりとくらしー。
昨日の朝日新聞に、勝間和代という人のインタビュー?記事が載っていた。キャリア形成に関するもの。
この人は名前は聞いたことがあるけど、特に何も知らない。
彼女は大学一年で「会計士補」だかなんだか言う資格を取っていたそうで、高校時代から勉強していたそうだ。
まあ、えらいこと。
で、彼女が言うのだ。資格やキャリアは需要と供給を考えて目指しなさい。当時は会計士は足りなくて、だんだん需要が増えそうだから、それにしたんだと。今高校生なら、「英語と中国語、アジアの何かもう1つの言語」を学ぶ、と。まあ、この背景は猿でもわかる。ビジネスチャンスというか、役立つのは、ね、
でも、なんとも言えない気持ち悪さと憤りを覚えた。
この人の論理は、結局のところ、自分に内発する興味関心ではなく、世の中の需要に合わせて、自分が一番必要にされるように動きなさい、って言っている。
この人、何が好きなんだろう・・・?
あ、社会、それもきわめて狭い意味での社会から需要されるのが好きなんだ。ふむふむ。
そういうのが好きな人はそれでも良い。でも、今の社会はみんなにそれを要求していないか?みんなに、「人材」(resource)であることを要求していないか?
私は人材である前に人間でありたい。理想論じゃない。人間が幸せであるための最低条件だ。奴隷には奴隷のプライドがある。たとえ作った生産物にはいつも主人の名前が刻印されて、自分の生産物から疎外されて搾取されているんだとしても。
でも、「まあ、俺はこれを楽しく作れたんだ」っていうプライド、「俺がいなきゃ、主人は何もできない」っていうプライドはある。
人材になりたい人は、それで良い。もしかしたら、今や人間であるためには人材でなければならない時代なのかもしれない。そう、それが「ハイパーメリトクラシー」ってやつなんだろう。
でも、そんなのはおかしい。たとえ、それが模倣だろうが、主体は生産されていようが、それでも自分の内発的な何か――僕はそれを「たましい」と呼んでいる――から動かされて、自分の「好きなこと」を常に持って生きていけなければ。それは、あまりに切ないだろう。
そんな奴隷であることすら忘れた奴隷のロジックを、いけしゃあしゃあと社会に発信しないでほしい。
「人材」である前に「人間」でありたい。
特に、彼女が念頭に置いているであろう高校・大学1,2年生にこそ求めたい。人間であれ。
インドな日々
日曜日はお出かけできないのがシャクだったので、ゴリゴリゴリと黒胡椒と唐辛子を砕いてカレーパウダーと合わせて「ベトナム風カレークリームチキン」に挑戦。うまかった。写真は今度付け足す。
ターメリックライスと一緒に食べた。どの辺がベトナム風かと言うと、ナンプラーを入れているあたり。とはいえ、残念ながら味の痕跡はなかった。でも入れないと味が違うのかな。
昨日はその残りを夜ごはんにした。
今日は冷凍しておいたターメリックライスと無印のレトルトカレーでお昼ごはん。インドな日々。って、ベトナムって書いてあるじゃん。
とりあえず、ターメリックライスは使い回し利くし、単なる雑穀米に飽きたときに気分転換で食べられるので、今度からたくさん作っておこう。
ル・クルーゼの鍋にターメリック(つまりはうこんだが)の着色が少し残ってしまったのが残念ではあるが。少しの沁みは生活のうるおいだと思うので、がんばりましょう。
人生がたのしい。
人生がたのしい。
お金を使う。服を買う。一週間では着まわしきれないほど服がそろう。大事に着る。一週間の服のローテを考える。曜日がかぶらないように、一か月単位で妄想する。たのしい。
お金をつかわない。大事に節約する。節約したお金で買っちゃった服の料金を相殺する。さらにうまく節約しちゃうと、もしかしてセールのお知らせが来たら、さらに一着買える。マーガレットハウェルからお買いもの券も届いたし。さらに節約する。素敵な部屋に住むのを妄想する。沖縄でぼんやり過ごすのを想像する。たのしい。
彼がささやく。本当は楽しいふりしてるんでしょ。たのしい。
今年度の自己紹介に「基本的にポストモダンが心地いい」って書いたんだ。ポスト構造主義なんて気取った言い方じゃなくってさ。ポストモダン。ポストモダン。なんて言ってもやっぱり僕にはフーコーなんだけど。はじめて、フーコーをなんかの新書で見たとき、あ、僕の思想みつけた、って思った。そう、主体が動かされてる。でも主体は動く。いつもなにか、「ふり」をしてきた僕の思想がここにあった。
本当の思想?ふりばっかりしてるのに?フーコーに感動したふりしてるんじゃないの?ふりじゃない?
6月の中途半端な晴れ間。大人になるのになんだか時間がかかってる僕は、今ちょうど、標準的な人の25歳くらいの感覚なんじゃないかな。え、25歳でこんな気分になれるの?標準的な人、すごいなぁ。
会ったことないけど。
今日の感動的なおことば。
お仕事で訳していた英文が実に私の心を表しているので。
「他の良いものでも摂取しすぎになり得るのと同様、読書を摂取しすぎる、ということもあり得る。極端に耽溺してしまえば、読書も悪徳になる。しかも、一般的に悪徳として認識されていないがゆえに、なおさら危険な悪徳になるのである。しかし過剰な読書はそれが見合った批判を受けない唯一の自己耽溺の形式である。事実は驚くべきものだ。というのも、率直に自己や他人を観察する誰にとっても、過剰な読書は人間の時間を貪り喰らい、そのエネルギーを無駄に消失し、その思考を毒し、その人の注意を現実からそらしてしまう。私たちの過剰な読書の一番大きな部分はニュースや最近の出来事に関するコメントに捧げられた出版された週刊誌の類である。このコメントについて言えば、多くは馬鹿げているか、怪しい動機によって書かれている。一方、任意の読者に関する限りでは、ほとんどのニュースは関わりがなく、深刻な意味など持っていない。私たちは単に読みすぎなのではない。私たちは間違った種類の物を読んでいるのだ。」
つまらんものを読まないように。