そんなこんなで、日々仕事。でも、最近楽しい。

うん、いろいろと書きたいことがあるけれど、ちゃんと書こうとすると、ちゃんと時間を取らなければ、と思い、ちゃんと取れる時間なんか無いと気づいて、更新しない。更新しないのは、たぶん、世界とつながっている夜が好きではないからなんだろうけど、つながっていたいとか、あまりにcommonすぎる。

そんなわけで、まぁ、たまに書こう。
今日は、仕事で生涯学習教育についての話とかしてきた。
あたりまえだけど、Kevin Floydを読んでるときとか、よくわかんないけどラカンについて考えているときほど、脳みそがキビキビ来る感じはないんだけど。でも、この領域はちょっと前の教育社会学ブームをより具体的な形にするのに、とてもよい分野なのかも、と思った。

まあ、そもそも教育がイデオロギーフリーだなんて、それほど寝ぼけたイデオロギーもないわけで、昔の伝統的言い回しを使えば、教育はまさに「左右イデオロギー対立」のフロントなわけだよ。
だって、次世代の観念に影響を及ぼせるのだもの。
だから、みんな、「私こそ中立よ」みたいな顔して教育という国家イデオロギー装置を奪取しようと、必死になるのだよね。
で、社会が不安定なときに責められたり狙われたりするのも、いつも教育さ。某市長とか、わかりやすいじゃん。てかあれって、北米地域の「落ちこぼれゼロ」政策の劣化版にしか見えないんだけど。

まあいいさ。
ところで、教育とか学習ってのは子供にだけ与えられるものなのかな。もちろん、そんなはずないよね。生涯学習だもの。いわゆる「キャリアアップのために日々研鑽」とか言われると、「んなもん、職場でやれるようにしろよ。仕事のための努力を日常に要求すんじゃねぇよ。」などと悪態をつきたくもなるけど。(いや、わたしゃ、そんなこと言われたことないよ。なんて幸運。)

でも、教育とか学習ってのは、自分が今まで見えていないことに出会うチャンスでもあるし。それに、教育というシステムを通じて、こそ、僕はこんなに多くの人と、半ばリビドー備給的関係すらきずけているのだもの。こんなに、人にちゃんと物事を教わるのが苦手だった人間がね。

だからこそ、生涯学習生涯学習教育なんだね。なによりも、この社会で生きていくこと自体が辛くてたまらなくて、みんなでも、なんらかの打ち込めるものを探していて、人とつながりたい。
それはたぶん、これからその崩壊が顕在化してくる、郊外の住宅地で求められることになってくると。もちろん、これをしたり、と銭金に結び付けて、新自由主義的ロジックを推し進めようとする企業もやまほどあるだろうけど。学習は、それ自体の「認識の契機」としての反発力、そして、どんな枠組みだろうと予想できない形で起きる「出会い」によって、それを乗り越えるチャンスを与えてくれるのかもしれないね。

というわけで、結局50ページくらいしか読めないまま、中途半端な授業になってしまいましたが。牧野篤先生、注目だと思います。