はいぱーめりとくらしー。

昨日の朝日新聞に、勝間和代という人のインタビュー?記事が載っていた。キャリア形成に関するもの。
この人は名前は聞いたことがあるけど、特に何も知らない。

彼女は大学一年で「会計士補」だかなんだか言う資格を取っていたそうで、高校時代から勉強していたそうだ。
まあ、えらいこと。

で、彼女が言うのだ。資格やキャリアは需要と供給を考えて目指しなさい。当時は会計士は足りなくて、だんだん需要が増えそうだから、それにしたんだと。今高校生なら、「英語と中国語、アジアの何かもう1つの言語」を学ぶ、と。まあ、この背景は猿でもわかる。ビジネスチャンスというか、役立つのは、ね、

でも、なんとも言えない気持ち悪さと憤りを覚えた。
この人の論理は、結局のところ、自分に内発する興味関心ではなく、世の中の需要に合わせて、自分が一番必要にされるように動きなさい、って言っている。
この人、何が好きなんだろう・・・?

あ、社会、それもきわめて狭い意味での社会から需要されるのが好きなんだ。ふむふむ。
そういうのが好きな人はそれでも良い。でも、今の社会はみんなにそれを要求していないか?みんなに、「人材」(resource)であることを要求していないか?

私は人材である前に人間でありたい。理想論じゃない。人間が幸せであるための最低条件だ。奴隷には奴隷のプライドがある。たとえ作った生産物にはいつも主人の名前が刻印されて、自分の生産物から疎外されて搾取されているんだとしても。
でも、「まあ、俺はこれを楽しく作れたんだ」っていうプライド、「俺がいなきゃ、主人は何もできない」っていうプライドはある。

人材になりたい人は、それで良い。もしかしたら、今や人間であるためには人材でなければならない時代なのかもしれない。そう、それが「ハイパーメリトクラシー」ってやつなんだろう。
でも、そんなのはおかしい。たとえ、それが模倣だろうが、主体は生産されていようが、それでも自分の内発的な何か――僕はそれを「たましい」と呼んでいる――から動かされて、自分の「好きなこと」を常に持って生きていけなければ。それは、あまりに切ないだろう。
そんな奴隷であることすら忘れた奴隷のロジックを、いけしゃあしゃあと社会に発信しないでほしい。

「人材」である前に「人間」でありたい。
特に、彼女が念頭に置いているであろう高校・大学1,2年生にこそ求めたい。人間であれ。