呼びかけられたい主体〜六本木21_21デザインサイト「これも自分と認めざるを得ない」展

酷暑、過剰労働、自己愛過多、酒びたり。ポトラッチ・パーティのような濫費。蕩尽。
そんな8月のある日、半ば、「ネギにネギをかけて食べる」子に、「これから歩いて六本木まで行くんだ」と言いたいがためだけに、六本木は、21_21デザインサイトを訪れた。

「これも自分と認めざるを得ない」展(http://www.2121designsight.jp/program/id/index.html


その日はオルセー展の最終日で、一応訪れてみた新国立美術館で浦安の某一角のような有様を見て、当然のごとくあきらめて、一緒にやっていたマン・レイ展を見て、満足しながら、その企画の工夫の無さに悪態をつきながら、展示の名前だけで決めたデザインサイトの展示を見る。
道中、かの有名な青山墓地を左手に見ながら歩き、肩が重くなった気がした話は割愛。

この展示は、主に「個人情報」の問題をメインにしていた。(行ってから知ったのだが。)
あらかじめ述べてしまえば、私はこれは、企画意図だけが先行した、生煮えのあまり成功していない展示だと感じている。

展示内容
まず入口を訪れると、体重、身長などのいくつかの個人情報、虹彩情報を預け、「宙に星を描く」というなんだか儀式じみた行為を行う。複製技術時代の末期、それが極限まで推し進められた結果、複製不可能な無数のワタシが世界から認識される。そんなベンヤミン的な、デジタル儀礼。星座的布置。なんならオリオンでも描かせてくれよ。

入ってみれば、たとえば指紋を押し付けると、指紋が泳ぎだして、帰り際にもう一度押し付けると、指紋が返ってくるという池があったり。また、身長体重をもとに、「あなたはこの人でしょ?」って、名前を当てられる(しかし当たらなかった)装置であるとか、わざとらしく「休憩スペース」としているものの上に隠しカメラを配置して、その個人の振る舞いのもとに、パーソナル・スペースなるものを図にしているライブテレビがあったり、そして変な小屋に入ってみると、鏡があって、後ろに金魚鉢と金魚が写っているのだが、部屋には金魚は存在せず、鏡の中にはあなたはいない、というトゥルニエ的、あるいはラカン的展示企画。そして、虹彩がでかでかと映し出されて、自分の名前があてられる。それを一生懸命、なんだか古典的な黒板消しみたいなもので消していくまで「まだあなたです」と「呼びかけ」られ、ようやくその個人が特定できなくなると、「もうあなたではありません」とdismissされる、という装置。


感想
このように述べれば、とてもなんだか面白そうなのだが、いちいち色んなものを体験するのに並ばなければならない。そしてその割に、ひとつひとつの装置にはインパクトはない。
なんだか、中途半端なアトラクション、高校の文化祭のお化け屋敷にも似た手作り感(入ったことないけど。)

「面白い」というか、なんだかやさしい気持ちで体験してあげなければならない。

「いまの技術ではあなたはこんなに特定されちゃうんですよ!」と、1973年、私の認識ではミシェル・フーコーが『監視と処罰』を出版した瞬間に大々的に到来が予測された、監視社会(しかしそれは、オーウェル的なのか?)の恐怖でも伝えてくれるのか、と思うわけだが、様々な失敗によって、逆に、いかにいまだ、テクノロジーは、私達が「顔」というものによって容易に認識できるものを認識する力がないか、思い知らされる。そう、煙草の年齢認証つきの自販機と同じだ。

そしてフーコー流に言うならば、この展示の「失敗」こそ、この展示の機能なのである。

まさに、ワタシが不安になるのは、ワタシが認識される瞬間ではない。
「これがあなたです」
「まだあなたです」
その呼びかけは、アルチュセールを用いるまでもなく、国家イデオロギー装置からの呼びかけなのであるが、本当に怖いのは、せっかく登記した情報、並んだ手間、それにも関わらず、「これはあなたではありません」「これは別の人です」という呼びかけの失敗こそ、「あ〜あ、ダメじゃん」という企画への失望とあいまって、ワタシを不安にするのである。

そもそも、数多くある、アルチュセール的な「主体化」の論の多くが、いくらフーコーアルチュセールが注意しようとも、「主体」と「権力」を相互に外在的なものとして前提している。つまり、主体は常に既に権力の外部にあって、権力から呼びかけられることに恐怖し、あるいは嫌悪する。

しかし、ジュディス・バトラーが喝破したように、主体は呼びかけられる前に、すでにして呼びかけられてあらねばならず、あるいは、主体は主体として呼びかけられるべく準備ができていなければならない。(Psychic Life of Power

アルチュセールが「図式的」に示す、あなたの後ろから呼びかける警官は、決して "Hey You There"と呼びかけてはくれない。
あなたは常に既に呼びかけられてある。

そして本当の恐怖は、権力によって認証されることではない。
権力によって認証されないことである。

今回の展示で、唯一、よくできていた虹彩認証のあの展示。(それはもっぱら、虹彩認証の技術の信頼性の高さに由来する)もしあそこで、あなたの虹彩の中心に浮かぶのが、あなたが入口で記した名前でなかったならば?

そして後ろから、「それ、、、俺だ・・・」と呟く声が聞こえたならば?

昔人づてに聞いた、もう都市伝説のような、ある人の言葉。「長いものに巻かれるって気持ちいいですよね。」

もともと、個人のアウラの喪失、個人が群集となることを導くとされていた複製技術の、その同延上にあるシステムは、デジタルな形で個人を特定することで、個人のアウラ(あるいはアイデンティティ)を回復してくれるかのようだ。
そしてそれが失敗するとき、ワタシは、不在になるのだろうか。

権力は呼びかけてくれる。
呼びかけられるスリル。
権力と遊ぶマゾヒスティックな快楽。

それに呼びかけてもらえない恐怖。しかしそれすら、権力の内部にある、快楽と主体化のシステムだとしたら?
権力は、遠心的なのだ。権力は、必ず外部を構成するのだ。

だから、この展示は、失敗のそのゆえに、成功する。やさしい権力とやさしい主体は、美術館という予定調和の場所で、予定調和の崩壊すら予期しながら、ちょっとした、Master & Slaveあそびに、興じるのだ。