飲んだ飲んだ〜飲んだくれ読書会
昨日(日付が変わったので一昨日だけど)、土曜日は、ミヤと読書会でした。
Common Wealth: Das Ende des Eigentums
- 作者: Michael Hardt,Antonio Negri,Thomas Atzert,Andreas Wirthensohn
- 出版社/メーカー: Campus Verlag GmbH
- 発売日: 2010/03/08
- メディア: ハードカバー
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ネグリ&ハート、『帝国』3部作の最後。
私は英語読書、リハビリ中。
ミヤは多忙&花粉症。
ミヤの読書メモ以外、レジュメなし。
そして前半だけしか読んでいない(400ページもあるのよ!)
のグダグダ読書会で、もっぱらビールを飲みながらやりました。
内容に関しては。半分だけを踏まえて。
基本、「う〜〜〜ん」という感じ。
フランス革命とアメリカ独立以後の「Republic」を、「Republic of Property Rights」、つまり、「所有権の共和国」と喝破しているところは、とても面白い。
今日の、まっとうな社会の構成が「自由主義」と「民主主義」から構成されているのだと考えたときに、この「自由主義」は必ずしも「資本主義」と=ではない、ばかりか、「所有権」と「自由主義」が、ときにかなり対立する、という点は、なかなか面白い分析でした。
他にも、特に僕としては、経済体制に関する分析は面白かった。
左翼の批評として、グローバル化を必ずしも否定的に捉えない(グローバル化への抵抗を「土」「人間の本来の姿」に還元しない)姿勢も良い。
でも、「マルチチュード」は正直、相変わらず納得のいかない概念だった。けっきょく、これだとスピヴァクがフーコーとドゥルーズに関して批判した、「リプリゼンテーション」(表象/代表)問題を考慮しない、「透明な知識人」ではないのか?
なによりも思ったのが、「マルチチュード」という運動体を、「多様で、自由で、中心を持たない」としながら、彼らが歴史的に注目している「ハイチ革命」や「奴隷解放」などの歴史語りが「真っ黒」。
たとえば、トゥーサン・ルーベルチュールの「黒さ」と、彼の宗教的な立場はどうなるのか?など。
つまり、ある意味で、ネグリ&ハートは、抵抗の主体をユートピア化して、それを一枚岩に描いていないか?
そんなことを思ったのです。
まあ、フーコーを肯定的に評価して、その後に運動の主体論を持って来ようとするならば、やはり、それはドゥルーズ的な「生成変化」の主体にならなきゃならんわけですが。
だとすると、こうした運動体の開く未来に関しては、エリザベス・グロスが思い描くような「開かれた、どうなるかわからない予測不可能な未来」という書き方の方が誠実な気がする。
(ただしその場合、「それはほぼ、何も言っていない」という袋小路が。)
まあ、かなりはしょっているので、あんまり訳がわからないとは思うのですが。
正直、予想通り、ブレイク・スルーは出てきませんでした。
というか、この路線だと無理なんじゃないかな?
ラクラウ=ムフを読まなければ、と、
ミヤの論を聞きながら思いました。
(まあ、ラクラウ=ムフを読まなければ、は、すでに8年くらいまえから思っていた気がするのだが。)
今日はこんな感じ。
明日は2名の仲間と花を見る。
まだ咲いていないが。
しかし、咲いていなくても花は潜勢的には存在するのだろう、という観点から、花見であろう。
しかし、毎度のことながら、深夜24時の飲み会は、ワクワクドキドキする。