フレイザー=バトラー論争

さて、改めてもう一度フレイザー=バトラー論争の話をしよう。

と言っても、もう何を言ったかあんまり覚えていない、というか、この論争の概要を説明するのがちょっと面倒になってしまったので、とりあえず自分が言ったことの覚書でも書いておこうと思う。

基本的な路線として、現時点で読むと、フレイザーによるバトラーへの批判の筋道は正しいと思った。

バトラーは、フレイザーが「文化vs.経済」という対立図式を設けることで、実質的に、クィア理論などの、「新しい社会運動」(厳密にはこの用語法は違っているようにも思うのだが、まあよかんべ)を運動として格下げしているか、そうまでは言わなくても、「文化」中心の運動とされたマイノリティの、現実生活上の、痛みを伴う抑圧を不可視にしてしまっているのではないか、と噛み付いた。
そして、ラカンレヴィ=ストロース(というかゲイル・ルーヴィン)を使いながら、家父長制こそが実は資本主義の条件である、という点をからめて、エンゲルスも参照しつつ、文化と経済の二分法を批判した。

これに対してフレイザーは、自分の論は、「文化的な誤認」を「単に文化的な」と位置づけることでその抑圧の程度を低く見積もろうとするものではない、とし、実際に、たとえば遺産相続上、婚姻上、そして、場合によってはその行為によって違法とすらされる危険がある、同性愛者の「物質的」な抑圧を確認したうえで、しかし資本主義は、こうした同性愛者というカテゴリーを、たとえば黒人というカテゴリーや女性とういカテゴリーを必要とするほどには、必要としていない、という点を指摘し、バトラーが逆に、「経済的」と「物質的」を混同することで一元論に陥っていると指摘した。

(後輩は竹村和子さんの論文も引きつつ話をしていたけど、僕は今回読み直す余裕がなかったので、その点はとりあえず割愛)

で、この議論は、たまたまジェイムソンを読んでいたこともあって、フレイザーの方が正しい、と感じた。
フレイザーは、「資本主義」の「歴史化」を目指している。それに対してバトラーは、いわばそうした「歴史」を考慮しないゆえに、一元論的になっている。というか、久々に読んで感じたのだけれど、ここでのバトラーは、かつて彼女がラカンフェミニストたちに行なっていた批判が跳ね返ってくるような主張をしているようにも見える。
彼女は常に、ラカン派のフェミニズムが「女性の象徴界での地位こそ考慮しなければならない」と主張することに対して、「それを考慮して、いつ変革はやってくるのか?それより『女性』という位置を本質化してしまう危険はないのか?」と批判していた。
ところがこの論争では、バトラーは、「女性」という位置を「根底的」であり、「資本主義を成立させる条件」として提示することで、いわば、女性の地位を本質化しそうになっているんじゃないだろうか?

という意味において、単純に字義通りに述べれば、この論争は、フレイザーの方が妥当なことを述べているようにも見える。

とはいえ、それはそれとして。

両者がなぜ、このような立場で議論を展開しなければならなかったのか?という点こそ考えてみたい。

フレイザーは、心理的には実はあんまり共感するところが多くないし、『中断された正義』も読んでいないので、不正確やもしれないのだけれど。
この議論で魅力的に映った言葉は。

「たとえば異性愛主義における抑圧を解消するために、資本主義を転覆する必要などないのだ。(たとえ、他の理由でそうする必要がある、ということは多いにありうるとしても)」という文言。(引用は記憶なので不正確な点はご容赦を。)

これは常々、私が考えていた問題だった。なぜ人は、「自分の苦しみ」を語るときに、それを他者によって簒奪されなければならないのか。そして、わざわざ(書物にでも現地にでも)出かけていって「他者の苦しみ」を「聞く」というのはどういうことなのか?たとえば、なんで自分の言葉を、なんらかの大きな運動の「胎動」にされちゃったり、あるいは、そういう「具体的で直接的な抵抗」みたいなものをどんどん見つけていきながら、それを「論文」という形にしたがるのはなぜなのか。(というのは、批判ではなく、自戒であるという前提で読んで欲しいのですが。)などなど。

たとえば、資本主義のシステム上利益を受けていて、かつ、ゲイとして、なんらかの抑圧を感じる人は、どうすりゃいいのか。
(僕は今、危険な論理の只中にある。ここには当然留保がある。たとえば、「資本主義のシステム上利益を受けている」ことは、「資本主義というシステム」を疑問視してはならない、ということなのか。そしてまた、上述のような仮定の人物自体が、本当にいるのか。むしろ。エンジェルズ・イン・アメリカの「私は男とセックスするだけだ。ゲイじゃない」と述べる、タフなタカ派のおっちゃんを思い浮かべるのだが。まあ、仮定の話。)

フレイザー自身の主張は、実は「たとえ、他の理由でそうする必要がある、ということは多いにありうるとしても」という留保のほうにあるような気もしないではないのだが、しかし、魅力的な社会運動への招待にも見えなくない。というか、現実にそうしたコミットをしている人々の方が多いのかもしれない。

要するに、私がフレイザーのこうした「左翼」論に「魅力」を感じたのは、そこに、アナルコ・キャピタリズムネオリベラリズムへの誘惑があるからだ。私は常々、資本主義への批判よりも、おそらく「国家」(「国歌」と誤変換したが、さて、誤変換だろうか)への批判の方に共感を感じてきた。たぶん、いわゆる「文化左翼」への関心にも、正直似たようなメンタリティがあったのだろう。(言い訳にならないけれど、これは「露悪」の類で、これをまたどのように相対化できるのか、という問いが出てくるわけで、それがネグリ、ハートの読書会に関連してきそう。)
だから、ついつい、アナルコ・キャピタリズム的な気持ちになっていくわけだったりもする。

さて、ではバトラーは?
この場合、バトラーがなぜ、フレイザーの土俵に乗っかって、「物質的にも抑圧されている」という主張をしなければならなかったのか。たとえば、「誤認」とか「承認」という言葉づかいに対して、「誰がそもそも承認する(してあげる)のか?」という形で批判しても良さそうである。認可された主体と、否認される他者の関係に関する、異性愛マトリックスの批判だ。でもそうしなかった。

ここに、バトラーのその後の展開と関わるものを感じたのだ。
バトラーは、次第に「生存可能性」という問題を、抑圧の問題の中心にすえるようになっていった。
つまり、「生きてるのに、生きていないかのような生」「排除され、『現実界』なる場所に閉じ込められた生」みたいな問題だ。
そして、その苦しみの中で、いかにして、抵抗が生まれるか、を示そうとしてきたし、また、その問題をいつも考えながら、しかし彼女の得意分野である「言語」の問題に執着してきたように見える。

(ちなみに、個人的にその中で一番面白かったのが、Undoing Genderの、ある論文で、これは昔から指摘してきたけれど、バトラー版「サバルタンは語ることができるか」だと思う。ちなみに、5年前くらい前は、構築主義批判、というか、アンチ「ジェンダー・フリー」派が面白いくらいに参照していた、ある人に関する論文だった。いまや、彼ら、彼女らはみんな大挙して、鳩山政権批判と夫婦別姓批判と外国人参政権批判におしよせて、ジェンダー・フリー批判は閑古鳥だが。政権交代って、やっぱり凄いね。僕はその頃に、大事にしてきたものと、国会の政治への興味を捨てたけど。)

閑話休題だった。

さて、まとめていこう。
私は、「フレイザーの方が正しい」と言いつつも、やはり根っこからバトラーの方が好きなわけで。
だから、バトラーの問題系にコミットしながら考えたい。

さて。

仮にある種の「当事者」であったとして、しかし、人は自己以外の「当事者」にはなれなかろうと考えると、根本的に、私はしょっちゅう、「他人」あるいは「他者」の抑圧についてばかり語っている。
そのときに、そのベースの倫理、「こうであってはいけないんだ!」という論拠をどこから持ってくるのか?
それは、「身体」である。「痛み」である。ここに「痛がっている身体がある」ということである。
ここに、「殺されている人」「殺されようとしている人」「殺された状態で生かされている人」がいる。

それは、一つの倫理的出発点である、のだろう。

そのうえで。
問題がある。
これはある意味で「生=権力」であるかもしれない。
あるいはなぜ、「この生」を取り上げるのか?
文学研究、文化理論研究を行なうとき、「数量」は問題でない。(いや問題ではあろうが。)
その恣意性はOKなのか?

なぜ、この問題なのか?
この生なのか?

この読書会の場で、漫画 『The World is Mine』の名台詞が浮かんだ。
「人の命の重さは・・・時価です。」

うむむむ。

という問題を考えながら、次はコモンウェルスですなあ。


なかなか楽しいです。

ネグリ&ハートはやはり、一生懸命「答え」を探す姿勢が「読ませる」。
ただ、あの論理だと、グロスの方が結局良いんじゃないか?という気もしないでもないのだが。

またの読書会を、楽しみにしております。




うん。理解していただいたと思いますが、途中から、「説明する」ことをやめ、
「叫んで」います。
まあ、自由に好きな本を読めるようになってから、ずっと思考はこんな調子だけどね。

まとまっていなくて、ごめんなし。