左翼に何が残されているのか

いや、タイトルは別にびびらなくて大丈夫です。
ある本のタイトルをそのまま日本語にしました。
江ノ島のカフェの写真はまた後日、上げるとして、とりあえず今日は、一昨日にやった、大学院の後輩くんとの読書会の話。

テーマは以下の批評空間に掲載された、ジュディス・バトラーとナンシー・フレイザーの論争を再考する、というもの。

批評空間 (第2期第23号)

批評空間 (第2期第23号)

って、No Imageですか。そうですか。
まあ良いでしょう。

読書会と言っても、私は該当論文を小一時間で読んで、レジュメも用意せずに手元のメモを見ながら(というか、それすら見ずに)プレゼンする、という、聞き手の負担の大きい、グダグダな内容だったのだけど(ゴメン)その割には意外と面白い話ができた気もしないでもない。
彼の立論は実に面白く、さすが、と思ったが、なんかにするつもりみたいなので、そこに触れないで自分のやった話だけで進めます。

<『中断された正義』>
フレイザー=バトラー論争の概要は、というと、フレイザーが『中断された正義』において、今日の左翼運動は、ふたつの軸をもった別々の運動の間で分断されている、として、その一方のものとして、クィアの運動を挙げていることにバトラーが噛み付いた、というもの。
フレイザーによる左翼運動の区分けは、おおまかに言えば、経済的格差に発し、その格差の是正を求める「再分配」の運動と、文化的な誤認に発し、その誤認の訂正を求める「承認」の運動に分かれている。で、前者の典型例が労働者階級であり、後者の典型例がクィアである、と。(ちなみに、人種やポストコロニアルはこの両方を併せ持つ)

この両者がなぜ根本的に対立するか。前者の労働者運動は、その運動の究極的目標として、みずからの階級の解消を目指すものである。つまり、格差がなくなれば、階級としての労働者(というか貧困層)は消失する。それに対して、後者のクィアは、と言えば、これはみずからのセクシュアリティを承認させる(してもらう、とは言うまい)ことが目的であるがゆえに、集団としての自らの位置を確立することが目的であるのだ。

これがフレイザーのおおまかな、『中断された正義』での立場。ちなみにこの「再分配」と「承認」は、現存のポリティクスの中でのあり方で、本当はこの先に「社会主義」と「脱構築」があるべきだそうなんだが、これはあまり切実さを感じられないので割愛。(正直、ここでのフレイザーの「社会主義」と「脱構築」は、その名を使うに値しないレトリックにしか感じられない)

<「単に文化的な」
で、バトラーの噛み付きポイントは、フレイザーが「セクシュアリティ」を「単に文化的」としようとしている、ということだろう。(もちろん、この主張の当否はあとで検討)

バトラーの批判は主に2点。
セクシュアリティをめぐる布置によって周縁的な地位に置かれている人は、ただセクシュアリティを「承認」して もらえなくて苦しいどころか、「経済的」「物質的」に苦しんでいる。
②そもそも「経済的」「文化的」という二分法は、アルチュセールとかマルクス主義フェミニズムをすっとばして、 古典的マルクス主義の「経済優先」「下部構造決定」を復活させて、「文化的左翼」という名のもとに、新たに生 まれている運動(いわゆる「新しい社会運動」)を二次的なものとして評価しようとするものである。

こうした立論を行なうにあたり、バトラーは、特にレヴィ=ストロース(あるいはその読み直しとしての「女達の交通」)とラカンを経由して、経済的/文化的という二分法を「脱構築」しようとしている。たとえば家父長制とは、そこで、「経済的なもの」を成立させる前提となっているのである。

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うん、ちょっと時間かかるね。
また近日中に、この記事完成させます。